認知症初期のタクさん その7(番外編)
2006 / 09 / 04 ( Mon ) 07:35:32

前回「その6」で初期編を閉めると書きましたが、その頃の私のことを中心に「番外編」を書いてみます。

◆もやもやした気持ち
このもやもやした気持ちとは私のことです。
父の面倒を看始めた頃、「あんな父の面倒なんか看たくないのに」との気持ちの葛藤がありました。
父は男尊女卑、長男(跡取り)第一主義の昔流の人で、弟のことを子供の時から可愛がり(そのため甘やかし)、私のことは常に厳しく、反抗気味な私を丸めた新聞紙で叩くなど、すぐに手が出ました。
弟は叱られたことも叩かれたこともありませんので、幼い頃から、そんな父に対する不満は積もり積もっていました。
何についても「お姉ちゃんだから」と我慢させられ、私は欲求不満でした。
成人してからは仲の良い親子になり一応親孝行な娘?になりましたが、大人になってもあらゆる部分で私と弟とに対する待遇の差は歴然でした。
それでも、父の認知症の症状と毎日対面していると、長い間の父への不満も薄らいで行きました。
過去がどうであれ、今父がこんな状況なのだから、過去の不満など引きずっている場合じゃないと徐々に思うようになって行きました。

◆弟が心配
父は認知症初期の時期は、考えもそれなりにちゃんとしていました。
独身の弟のことの結婚や先行きのことなど色々心配していました。
私によく「お前はしっかりしているから大丈夫だが、弟のことが心配だ」と言っていました。
「お父さんが亡くなったら、この家はお前にやるぞ♪」と言ってくれましたが、根拠のないことでした。
それでも、そんな言葉に嬉しくなった単純な私は、いつ自分の物になってもいいように、せっせと父のマンションの掃除にいそしみました。

◆通い介護の秘訣
いくら自転車で10分の近くに父に住んでもらったとはいえ、毎日通って面倒を看るのには父と同居の弟がいたから成り立ったのです。
夜と日曜などの休日は弟がいたから安心して父のことを任せられました。
この頃、夜間ごそごそ行動することの多かった父に、同居の弟は夜ぐっすり寝られなかったことでしょう。
また、私と弟は父の対応の影響もあって仲がよくない兄弟でしたが、父の介護を協力しあってしなければならないことで、お互い口も聞きたくない仲でしたが、そうは言っていられなくなりました。
父の認知症が兄弟の結びつきに導いてくれたのです。

◆通い介護の長所
長所は勿論、父の家に行かない時間は確実に自分の時間として取れることでした。
認知症は良くならないことが分かっていたので、父の状態がまだ軽い今のうちに色々楽しめることは楽しんでおこうと考えました。
そのうち、そんなこともやっていられない時がきっと来るから…事実、後年そうなりました。
父の状態はまだ四六時中見守りをしていなくても大丈夫だったので、私は自分の趣味などを続けました。
Windows95が出てパソコンブームになり、私は自分のパソコンを買ってホームページまで作り、ネット依存症になったのもこの頃でした。
音楽系のHPだったので、記事を載せるためにコンサートなどにも通いました。
今は成人した息子ですが、この頃はまだ小学生だったので夏休みなど家族で旅行にも行きました。
それも皆、父が弟と同居だったから出来たことだと思います。

◆通い介護の短所
自宅から父の元に通う形ですから、通勤していると同じようでした。
毎日通っていても賃金が貰える訳ではなく、むなしい…これが仕事だったらお金になるのに…と思うこともありました。
同居と違って、何があっても「行かなくては事が済まない」訳で、行き来することを含めた余計な時間が必要になります。
通院などお出掛けがある時、父は自分で準備出来ないので、着る物・持ち物などの準備を含めた余計な手間が同居の場合よりかかりました。

◆食事のこと
父が一人の時間の食事については以前も書きましたが、前日に電子レンジで温めれば済む物や冷蔵庫から出してすぐ食べられる物を用意して「○○日の朝食用 レンジで2分温めてね」などと全ての食べ物にメモを付けました。
父がいつも居るキッチンの席のそばにその日の食事一覧を書いて、その食事のある場所も書きました。
時々食べてなかったりしましたが、認知症初期の頃はそれで何とか済みました。
私は食事作りが昔から苦手だったので、買ったお惣菜やお弁当にすることもよくありました。

◆散歩
「狭い家の中に一日中閉じ込めておいて!!」と父は時々怒ったものでした。
それで、天気が良い日には近所を一緒に1時間半位散歩しました。
その頃は足取りも良く、とてもよく歩いてくれて、父と共に楽しい時間を過ごすことが出来ました。
父が大きな声で家々の表札の名前を読み上げるのには困りました。
今思うと、まだ字が読めた訳ですし、父は文字を読むことを確認する行為だったのかもしれません。
また、道端の花の名前などもよく聞いてきました。教えてもすぐ忘れちゃうのに…と思いました。
今思うと、まだ物に関心があっただけ良かったことでした。


今日の花262262
家々の屏や垣根の下草としてよく植えられていますが、この時期には日中白い花が元気に開き(夜は閉じる)初秋を感じさせてくれる「タマスダレ」。当たり前過ぎる程、よく見かける花ですが、私にはなぜか懐かしい花に思われます。

読んで頂けたら、ランキングへ応援クリックお願いいたします。励みになりますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:0 admin page top↑
認知症初期のタクさん その6(忘却の彼方の妻)
2006 / 09 / 01 ( Fri ) 02:24:33

そろそろ「認知症初期のタクさん」シリーズをとりあえず閉めようと思います。
次からは、いよいよ本格的な「認知症中期のタクさん」に的を絞ってみます。
シリーズ初回に書きましたが、タクさんの場合は次のように分けました。

◆初期(1993年〜2001年後半 72歳〜80歳)
   ・・・失禁がない頃まで
◆中期(2001後半〜2004年後半 80歳〜83歳)
   ・・・失禁が始まり、徘徊等目立った行動があったが元気だった時期
◆末期(2004年後半〜 83歳〜)
   ・・・会話が成り立たなくなり、体力の衰え(現在はこの時期)

父の場合、失禁があるかないかで分けたせいかもしれませんが、初期が8年間と非常に長く、この期間の進行が緩かだったのが特徴と言えるかもしれません。
この時期は日常生活はある程度こなせるけれど、「物忘れの時期」ということに尽きると思います。

◆妻のこと
父の物忘れで特徴的だったのは、妻のことを早い時期から全く覚えていなかったことです。
結婚生活30年の時、妻は病気で先立ちましたが(死別後、認知症になるまで約11年)、30年も連れ添ったのに早くから忘れてしまったのです。
これは私にとっても寂しいことでした。

妻が亡くなる時には献身的に尽くしてたのに。
妻の写真を見ても誰だか全く分からない。
妻の名前を言っても覚えがない。
「結婚してたかな??」と、言う父。
自分の母親や父親の話はよくしていたのに。
妻の母親のことも気になって話題に出たというのに。
同じ時期、親戚の人を写真で見て名前が言えたのに。
以前、お隣さんだった方の名前が言えたり消息を気にしたりするのに。
亡くなった可愛がってた犬のことは覚えているのに。

ある介護職の方が「忘れてしまう程、妻への想いが強かったってことでは?」とおっしゃいました。そう思いたいですが…。

◆出掛けた時
初期の頃は、私と一緒によくバスやタクシーに乗り通院がてら、あちこち出掛けました。
バスに乗ると、さっさと空いている席に座ろうとしました。
まだ「さっさ」の動作が出来た頃でしたから。
父は昔から図々しいところがあって、「誰より先に」が好きで、のろのろしたのは大嫌いでした。
でも、慌てなくても大抵誰かが席を譲ってくれました。
そんな父ですが、傍で私が立っていると「大丈夫か?荷物持とうか?ここに寄りかかっていいよ!」など、優しい面もありました。

バスで席に着くとまず「持ち物点検」が始まります。
財布やシルバーパスの確認で出したり仕舞ったり、それで却って落としたり。
「ちゃんと持って来ているから大丈夫よ♪」と言っても、点検を繰り返して外の景色など眺めたことはありませんでした。
それでも、「次降りるよ」と言うと、降りる準備はすぐ出来ました。
今は、そうは行きません。

タクシーに乗ると「お金は??」と口に出さず指サインで必ず示すので、「私が払うから大丈夫よ♪」と。これの繰り返しでした。
お金については、何かと心配だったのでしょう。

参照↓↓
タクさんの病気と経過 その1


今日の花262262
つる性で長く伸びた枝先に可愛い赤いペンダント。「アブチロン」の花です。よく垣根に絡ませて咲いているのを見ます。秋遅くまで長期に渡って赤いペンダントが楽しめます。

読んで頂けたら、ぜひ、ランキングへ応援クリックお願いいたしますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:0 admin page top↑
認知症初期のタクさん その5(こだわりの物)
2006 / 08 / 30 ( Wed ) 02:50:48

認知症の初期、父はそれまでと違って入浴は面倒がりましたが、それ以外のことは以前と変わらず継続していたことがありました。
その「こだわり」と「物」の紹介です。

◆メンズ・ネット
父はくせっ毛なので、寝癖がつかないように昔から「男性用ヘア・ネット」を被って寝ました。
商品名は「メンズ・ネット」でした。
認知症初期には一日中被っていることが増えました。
これがどこでも売っている訳ではないので、売っていたらまとめて私が買い置きしました。

◆ヘア・ケープ
「これは髪をとかす時いいぞー!」とブルーのポリエステル製?のヘア・ケープを肩に広げて使っていました。
仕舞う場所はなぜか間違えず、ちゃんと洗面台の引き出しの中に仕舞っていました。
ケープに落ちた髪の毛はどう始末していたのか??
あまり喜べない気がして、このケープの存在が私は嫌でした。

◆えっちゅさん
父は昔から「T字帯」をパンツの下に履いて、「えっちゅさん」と呼び、越中ふんどし&パンツの汚れ防止として使っていました。
パンツはベージュ色の「猿股」と言う昔からあるタイプです。
病院に行った時には、父に言われて売店でT字帯も忘れずに買い置きしておきました。
この「えっちゅさん」は失禁が始まり紙パンツ常用になった頃、とうとう使わなくなりました。

◆ステッキ
父の「老人用品」としていち早く取り入れられた物は「ステッキ」でした。
認知症になる以前から、父は転ばないよう用心のため自分で何本も買い集め、使っていました。

認知症になってからも「どうだ!上手いだろう!このステッキさばきを!!見ろ!!」と、街を歩く時得意げにニヤッと笑って必ず言いました。
この頃足取りは全く問題なく、ステッキは一種の「父のカッコ付け用」でした。
父は英国紳士気取りだったんだと思われます。

また、ステッキは便利用品としても役立っていました。
窓のカーテンを閉める時、「便利だぞー!」と、いつも使っていました。
「泥棒が来た時もこれで!!」と、振り回したり突いて見せるので危なくて閉口しました。


今日の花262262
まんまるの玉のような花、「千日紅」(センニチコウ)があちこちで咲き出していました。色褪せないのでドライフラワーにも良いそうですね。最近では珍しい白花や赤紫系でも様々な色が出てきています。

読んで頂けたら、ランキングへ応援クリックお願いいたしますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

 

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:2 admin page top↑
認知症初期のタクさん その4(メモ魔の父)
2006 / 08 / 25 ( Fri ) 02:09:58

父は几帳面な人で昔から字を書くことが好きでした。
筆を持つと大変達筆で、私が小学生の時には手を取って書道も見てくれました。

達筆なだけなら良いですが、大変なメモ魔でした。

昔、家族揃って車で出掛けた時は、「○○時出発。○○時、○○インター通過。○○時、○○到着」「○○料金所、○○円支払い」などと、父は助手席の母に全部書かせていました。
母がいない時は、代わりに助手席に座った私が書く役目でした。
父一人の時は勿論自分で書きます。

電車やバスで出掛けた時も、その場その場で手帳に書いていましたので、一緒にいると、かなり鬱陶しいものでした。
在宅時でも、起きた時間、トイレに行った時間などを書いていました。
母が入院中で重態の時も枕元にメモ帳を置き、点滴を始めた時間、交換した時間など、こと細かく書いており、父がいない場合は傍に居る者が書くことになっていました。

そんな父を見て育った私はメモすることは好きですが、さすがに父のやり方は行き過ぎで、あまり意味がないと思っていましたが言う通りにしていました。

「こうしておけば、いつ何があっても、他の人にもよくわかるだろ?」と、父の持論でした。
父の母(私の祖母)が、記録を取る人だったので、父は影響を受けたのでしょう。
持ち物には買った日付、買った店、値段、そして自分の名前を大抵書き込んでいました。

そんな父でしたので、認知症になってもその行為は続いていました。
ベッドに置いたメモ帳に、時間は書いてありましたが日付が書いてないので、いつのことなのか分かりません。
そのうち、そのメモ帳に自分の思いを書いていることもありましたが、字が達筆過ぎてよく読めませんでした。

1997年頃?だったか、父の毎日の生活に張りを持たせようと「般若心経」の写経を勧め、それ用の本や筆を父と一緒に出掛けて買い求めました。
書くことが好きな父にはピッタリだと思ったのですが、半分位書けた写経が何枚かありましたが三日坊主で終わりました。
般若心経の細かい文字の羅列は、集中力がなくなった認知症の父には無理だったようです。

ある時、家具にマジックで父の名前が書いてあるのを見つけました。
メモ魔の父でも認知症以前には、さすがに家具には名前を書きませんでした
全部漢字で以前より下手な字で書いてあったので、まだ認知症があまり進行していない時期に書いたと思われます。

2002年前半にデイで書道をやり、書いた自分の名前はひらがな交じりでした。
この頃、認知症発症9年。もう難しい漢字は書けなくなっていました。
書いた文字も間違っていて似ている文字でしたが、達筆な文字の面影はありました。
そして、2002年の後半には、あれだけ書くことが好きだった父なのに、文字は全く書かなくなりました。

父のマンションに毎日通っていた頃、私は父のその日の様子を「連絡ノート」に書いて、私が帰った後に帰宅する弟が見て分かるようにしていました。
これは父が特養に入居するまでずっと続けました。
そのノートを時々父が見ているようで、見た所にアンダーラインが引いてありました。

2001年10月に、ノートを見た父がピンクのサインペンのたどたどしい文字で、ページの片隅に私宛の書き込みをしていました。
これ以降、私宛に書かれた言葉(文字)はありません。
今となっては、父から私宛の最後の文字なのです。(まだ亡くなった訳ではありませんが)
だから、この書き込みがある連絡ノートは記念に取ってありますが、今久しぶりに出して見ました。

「えすえへ 父より 何にかと 心ペイしてくれ     いろいろ 心パン アリガトー」(「えすえ」以外は原文のまま)

そして、私が「次は月曜に来ます」と書いた所に父がピンクのアンダーラインを引いてありました。
土日を挟んで行かなかったので(弟が休みで居たので)、私が来るのを待っていたのかもしれません。

これを書きながら、不覚にも私は今、泣いてしまいました。

参照↓↓
タクさんの病気と経過 その1  


今日の花262262
ガウラ」。名前は怪獣みたいだけど、細く伸びた枝先にゆらゆら揺れる花が可愛い。遠く離れて見ても赤やピンクの花の色が目立ちます。

読んで頂けたら、ランキングへ応援クリックお願いいたしますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:2 admin page top↑
認知症初期のタクさん その3(最愛の姉の死)
2006 / 08 / 24 ( Thu ) 01:46:14

1999年晩冬、父と最も親しかった姉(私の伯母)が入院、父を連れて見舞いに行きました。
何とか話は出来ましたが、かなり容態は悪そうでした。
伯母は軽い認知症でしたが、思い出多い私のことは分かって喜んでくれました。

父に説明すると、どれだけ分かったか疑わしいですが「頑張れよ!!」と声をかけていました。
でも、顔色が良く無く寝たきりになり、よく知っている伯母とは随分様子が違って見えましたから、父には自分の姉だと分からなかったでしょう。
それでも、傍で励ましの声をかけていました。

その伯母が、それから半年後に亡くなりました。
葬儀の時、父は自分の姉だと実感が全くなかったようでした。
伯母の顔を覗き込んで「誰だろう?」の表情でしたが、空気が読めたのか神妙になっていました。

時間があると葬儀場をあちこちキョロキョロ物珍しそうに見て歩き、親しい親戚関係も分からない様子で、自ら親戚に挨拶などすることはありませんでした。
それでも促すと、通り一遍の挨拶や返事は出来ていました。
親しい親戚の名前だけは覚えているようでしたが、顔の判別が付かないようでした。

珍しそうにキョロキョロ見て回る行動は、その後も様々な場面でよくやっていました。
「これは何?これは○○だ!ここはどこ?」と、自分で確認納得するための行為だったのかもしれません。
その行動は割合自然な感じでしたので、他の人から見たら通常の人とさほど違いはなく見えたかもしれません。

後に、父がショートステイを利用するようになり、ショート中に「姉(あね)さんが迎えに来るから…」とよく言っていたようでした。
私が迎えに行っても「姉(あね)さんが迎えに来るからいい!」と私に向かって言ったこともありました。

また、その後の父との話題の中で、亡くなった伯母のことが出て「姉(あね)さん、どうしてるかな?」と父。
亡くなったと説明しても「そんなはずはない!聞いてないぞ!」と反応。
それからは時々話題に出た時は、父を怒らせないため、伯母は生きているとして話を合わせるとこじれることはありませんでした。

伯母の葬儀の席で、父のすぐ下の弟(私の叔父)が来ていましたが、叔父はいつものように私や父に声を掛けることもなく、ずっと同じ席に居て周りを見回しているだけでした。
どうしたのかな??叔父さんらしくないな?と感じました。

その後、この叔父も当時すでに軽い認知症だったことを知りました。
父の姉もそうでしたし、父の四人兄弟(元は五人だった)のうち三人も認知症に…。

タクさんの家系は認知症一族として、私の従兄弟なども、すでに開き直っております。

参照↓↓
タクさんの病気と経過 その1


今日の花262262
小さな白い花の集まりがとても可憐で清々しい花はなんと「ニラ」。匂いのある野菜のニラなのに花はイメージが違う。最近あちこちの鉢植えで見かけました。  

読んで頂けたら、ランキングへ応援クリックお願いいたしますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:0 admin page top↑
認知症初期のタクさん その2(初めての迷子)
2006 / 08 / 23 ( Wed ) 01:58:30

1999年秋に急性気管支炎で12日間入院し退院後9日目。
穏やかな生活をしていたタクさんが初めての迷子(徘徊?)になる事件が起きました。

この日は退院後の初診察日でした。
経過良好で通院の必要なし、とのことでいつものように病院の食堂で昼食をとり、その後、父とよく行く大きな本屋に入りました。
父は本が好きなので本屋に長居することが昔から多かったのです。
そのため、私は父を本屋で待たせて、近くの店でちょっとした買い物を済ませて来ることが時々ありました。
この日も「すぐ戻ってくるから、それまで他に行かないでこの店で待っててね」と言って、10分位で戻って来たのですが父は店内のどこにも居ませんでした。
午後3時頃のことです。

繁華街という程ではありませんが、駅前で人通りはかなり多い所です。
父が立ち寄りそうな周辺の店を探し回りましたが見当たりません。
すぐ近くの交番に届けましたが、当てになりそうもないので再びあちこち探し回りました。
自宅に居た息子に電話で父が迷子になったことを伝え、暗くなった6時頃までその街中を探し続けました。

すると6時過ぎ、息子から私の携帯に父がさっき家に来たと連絡が入りました。

自宅に戻ると、父は何事もなかったかの様子でした。
ビックリしましたが、怪我もなくホッとしました。
父を一人にして待たせた私が悪いのですから、父を叱り付けたりするようなことはしませんでした。

息子の話によると、普通に「こんばんは!」と来たそうです。
父に、はぐれてからどうしていたのか?どうやってここに来たのか?尋ねましたが、困ったような顔で「何も覚えていないんだよ。ちょっと飲み屋で一杯引っ掛けて来たかもしれないな〜♪」と、父は照れ笑いしながら言いました。

外出時、父のショルダーバッグの財布にはそこそこのお金を入れてありましたが(私が管理していた)、この頃は買物の支払いもおぼつかなかったので、買物やバスや電車に乗ることを父一人にはしませんでした。
私とはぐれた3時間を、一体父はどのように過ごしていたのでしょう??

父とはぐれた駅前の本屋から我が家へは、バスを約10分乗った終点から2〜3分歩いた所です。
通常、この駅から歩いて我が家に行くことはまず有り得ない距離でした。
父には道も分からないでしょう。

父は自分でバス停を探し、バスの支払いをして、またはシルバーパスを見せて一人で乗り降りしたのでしょうか?
いえ、出来そうにありません。

父のマンションは私の家へ行くバス路線の途中にありましたので、そこのバス停で降りずに乗り続ければ終点の私の家に向かうことになる訳です。
認知症になる前に時々我が家に来ていましたが、車で来ることが多かったのです。
認知症になってから来たことはなかったはずですが、昔の記憶で道順を覚えていたのでしょうか?

父が言うように飲み屋で一杯引っ掛けて、酔いが回っていたのかな?そんな顔もしていたし…??
でも、後になってみると、飲み屋説は「記憶喪失」の自分を自己弁護するための作り話か、「記憶喪失」の原因を飲み屋だと思い込んでいただけかもしれません。

認知症の人は、自分を正当化して正常に見せるため(プライドがあるので)の言葉の巧作をすると言います。
家族には認知症の症状出しまくりでも、他人には何事もないかのように、しっかりした態度を見せる特徴があります。
父の飲み屋説はそういうことだったのかもしれません。

事件は突然起きるものなんですね。
今まで大丈夫でも、急に変化が起きるものだと思い知りました。
とにかく、父一人で待たせることは絶対にしてはならないと思いました。
その後は、父との外出先で私だけトイレに入ることも、ままならなくなりました。

参照↓↓
タクさんの病気と経過 その1  
父の認知症の兆候 
ボケたタクさんの元へ通い始めた頃  
ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その2(物忘れ)
ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その3(まだ何でも出来た)

認知症初期のタクさん (入院はこりごり)


今日の花262262
ここ数日中に何度か見かけた「シコンノボタン」。はっと息を呑む紫色の花は和風な趣です。このような紫色は菖蒲やアヤメ、カキツバタ類以外には滅多に見ない気がします。

読んで頂けたら、ランキングへ応援クリックお願いいたします。励みになりますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:2 admin page top↑
認知症初期のタクさん (入院はこりごり)
2006 / 08 / 22 ( Tue ) 01:35:37

認知症の初期・中期・末期等の分け方ですが、タクさんの場合は下記のように分けてみました。
人によって違うと思いますが、振り返ってみると、タクさんの場合は失禁があるかないかが境目だったように思いました。

◆初期(1993年〜2001年後半 72歳〜80歳)
   ・・・失禁がない頃まで
◆中期(2001後半〜2004年後半 80歳〜83歳)
   ・・・失禁が始まり、徘徊等目立った行動があったが元気だった時期
◆末期(2004年後半〜 83歳〜)
   ・・・会話が成り立たなくなり、体力の衰え(現在はこの時期)

参照↓↓
タクさんの病気と経過 その1  
父の認知症の兆候 
ボケたタクさんの元へ通い始めた頃  
ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その2(物忘れ)
ボケたタクさんの元へ通い始めた頃 その3(まだ何でも出来た)

↑↑上記は1994年頃までのことです。

父は認知症になるもっと前から原因不明の貧血がありました。
倒れるなどの症状は特にないのですが、検査をすると貧血だったようです。
過去に胃・十二指腸潰瘍の大きな手術と大腸ポリープの手術をしているので、それが原因かもしれないと医者から言われていたようでした。

1994年から1996年にかけて、タクさんは2回貧血治療のため入院しています。
1994年(73歳)の時は足のむくみがきっかけで貧血が疑われ、しばらく通院していましたが精密検査と治療のため約2週間入院しました。
1996年(75歳)の入院は通院だけでは貧血がなかなか改善されなかったため、治療のため約1ヶ月の入院でした。
主に食事で貧血改善をしました。

この2回の内科入院には参りました。
入院といっても父は元気なのですが、自宅で比較的おとなしくしていた父とは打って変わって、認知症の症状丸出しの人と化しました。

◆病院内を徘徊
自分の病室が分からないので病室には「タクさんの部屋はここ」と大きく書いた紙が部屋の入り口に貼られました。
父のパジャマの背中には、父の名前と病室番号がついたゼッケンを付けられました。
失禁後、濡れた肌着やパジャマを脱いで、素っ裸で夜中の院内を徘徊することもありました。
自分のベッドと他人のベッドの区別もつかなかったようでした。

◆帰宅願望
始終ごそごそと荷物をまとめ、いつでも帰れるように支度して、すぐにでも帰る様子の日々でした。
昼夜関係なくごそごそやっていたので同室者に迷惑がられました。

◆収集癖
元来物集め(文具等のコレクター)が好きな人でしたが、しばしば同室者の物まで黙って盗って自分の物にしてしまいました。
自分の物と他人の物の区別がつかなかったからです。

◆失禁
環境が変わったせいか、トイレの場所が分からないためか、自宅に居た時は失禁したことがなかったのに失禁が続き、紙パンツ常用になりました。
紙パンツから漏れてパジャマなどを汚し、パジャマが足りなくなりました。

上記のようなことが有り、同室者の要望で、6人部屋から差額ベッドの個室に移されました。
内科の担当医から、「認知症ですね」と告げられました。(そんなこと、分かっているわい!)
それまで、その担当医に通院で診て頂いた時には、父はしっかりしていたので、認知症だと気付かなかったようでした。

毎日、汚れた肌着やパジャマを持ち帰って洗濯するため病院に通いました。
父は体は元気で、意外にも表情は良く、「いつ帰れるのか?」と毎日聞いてきました。
気分転換にしばしば院内を一緒に散歩して色々な話をしました。
「この病院は綺麗で広いねぇ!」と父は満足そうで、このお散歩は結構楽しかったです。

2回の入院は1年半程間を置いてますが、父は同じような様子でした。
2回目の入院は最初からナースステーションの傍の個室になりました。
個室は部屋にトイレはあるし、父はホテルにでもいるような快適な様子で満足そうにも見えました。
そのせいか、帰宅願望は最初の入院の時程ではありませんでした。
さすがに素っ裸での徘徊はなかったようでした。

その後、1999年秋(78歳)に同じ病院の呼吸器科に、今度は急性気管支炎で緊急入院しました。
風邪で高熱を出し、足腰が立たない状態になり、肺炎を併発する恐れがあったため入院となりましたが、肺炎は起こさず、病状も入院後2〜3日ですっかり良くなりました。
この入院でも、父の様子は前の入院と同じような認知症丸出し状態でした。

救急車で運ばれた時、内科の担当医に出くわし「今度は救急車か!!」とバカにされたように言われ、悔しかったです。
この内科医は当時内科部長だったのですが、私はあまり良い印象は持っていませんでした。

この入院では点滴の管を引っこ抜き、血まみれになることが何回かありました。
そのため、最初の2〜3日、弟と交代で昼も夜も父に付きっ切りで見守りました。
この時、父の高熱が感染したようで、私も滅多にない高熱を出し、父の病院で薬を出してもらいました。

当時は、まだ外を徘徊することや、帰宅願望、失禁はなかった頃でした。
ただ、不思議なことに3回共、退院して自宅に戻ると心配していた失禁はすぐに治まり、紙パンツも使わずに済みました。
自宅での様子も入院前と同じように、比較的穏やかな状態に戻りました。

入院は自宅での様子と違って急激に認知症が進んだ状態になるので、本当にこりごりでした。
もう絶対、父を入院させたくないので、父の健康にはより一層気をつけようと心に決めた頃でした。


今日の花262262
夏休みの終わり頃咲き出す花「ハナトラノオ」。今日も街のあちこちで咲き出しているのを見かけました。下から上へ咲き進み、頂上が咲く頃はもう秋です。暑いとはいえ最近夕暮れが早くなり、もうすぐ秋です。

読んで頂けたら、ランキングへ応援クリック、ぜひお願いいたしますm(__)m

FC2人気ブログランキングへ  FC2ブログランキング 

人気blogランキングへ  blogrnking

ブログ村介護ブログランキングへ にほんブログ村 介護ブログへ

テーマ:認知症の介護 - ジャンル:福祉・ボランティア


認知症初期のタクさん TB:0 CM:3 admin page top↑
* HOME *